Bricoの放浪記

ガンを乗り越えて、ゆる〜〜く旅する生き方を選んだ 旅と免疫力アップの日々のブログ

ケビンコスナー

スピーチテーマとして"A Famous Entertainer" というお題が出た

最初 自分の大リスペクトバンドのピンクフロイドについて書こうかと思って下調べをしていたら 途方もなく膨大になって収集つかないし 多分誰にも理解されないと思って止めて 往年のスターケビンコスナーについて書くことにした。 

  

以下 英訳前の原稿(ちと教訓ぽいのは原稿の趣旨なのでご勘弁を)

 

今は すっかり熱が冷めてしまって思い浮かべることもなくなってしまったが、私はかつて ケビンコスナーの大ファンだった。

改めて 彼の経歴を調べると

1955年、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のリンウッドに生まれる。チェロキー族インディアン、ドイツ、アイルランドの混血である。

カリフォルニア州立大学フラトン校で経営学を学び 卒業前にサウス・アクターズ・コーポに参加。

短期の就職期間を経て、俳優業に専念することを選ぶ。
下積みを経て『女優フランシス』(1982年)で本格デビューするが、出演シーンは決定版でカットされる。

『再会の時』(1983年)でも同じ目に遭う

1985年『ファンダンゴ』で主役を演じ、ケヴィン・レイノルズ監督と以後も組むことになる。

彼が32歳の時(1987年)、『アンタッチャブル』の主演に抜擢され、ショーン・コネリーロバート・デ・ニーロを相手に正義感溢れる主人公を演じる。

ゲイリー・クーパーの再来」と評価され、遅咲きながらハリウッドのトップスターの仲間入りをする。
フィールド・オブ・ドリームス』(1989年)や『ロビン・フッド』(1991年)、『ボディガード』(1992年)では善き父親やヒーローを演じる一方、

JFK』(1991年)や『パーフェクト・ワールド』(1993年)ではシリアスな役柄にも挑む。監督業やプロデューサー業にも進出し、

1990年の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』ではアカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀監督賞を授与され、後のクリント・イーストウッドと共に、オスカー監督兼俳優としての地位を得た。

しかしその後は

1995年の『ウォーターワールド』は大予算で作られ大作として期待されたが 好成績を残すことができなかった。

ロビン・フッド』と『ワイアット・アープ』(1994年)ではゴールデンラズベリー賞最低主演男優賞、受賞

『ポストマン』(1997年)では最低監督賞および最低主演男優賞をそれぞれ受賞した

これらの事実は彼が頂点を極めて後、独善的になって 周囲の意見を聞かず 柔軟で謙虚な態度を忘れてしまった事によると考えられる。

彼は今も制作活動を続けているが 残念ながら かつてのように彼の作品がt注目を浴びることはない。

ケビンコスナーから学べることは どのように大成しても 決して奢ることはないように心がけるべきと教えてくれる、

私たちはどのような地位にいたとしても 周囲の意見を謙虚に聞く態度を忘れてはいけない。

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