長崎に行ってきた~
平戸でオランダ商館(復元)の資料館や ザビエル教会と寺社が混然と見える古い通り、昔の雰囲気を残したままの街並みなど見た後 長崎市へ、
平戸のオランダ商館は復元と言っても 当時の建物を再現しているわけではなく 印刷物の画像で見て思い描いていたものと実物には落差があります。
160?年中国からの直接輸入の道がなかったポルトガル人が 家康に平戸での通商を許可されてその後平戸は貿易で栄えたのですが、1637年に東インド会社が石造りの立派な商館を作り それを徳川幕府が監査をした際に建物のキーストーンに東インド会社のマークと西暦が(1637という数字が)入っていたことに禁制のキリスト教を起源とする番号が入っているという所に 不備を言い立てて 建物の取り壊しと平戸での貿易の禁止を決め、
その後 長崎の出島という隔離された一画のみの貿易拠点を許すことになり、以後長崎が日本の唯一の貿易拠点となったのです。
(平戸)
古いお寺が並ぶ石畳の坂道の上にザビエル教会の尖塔が見えます。
平戸の街はいにしえの雰囲気を残した静かな街並みです
恥ずかしながらいわゆる長崎の街と平戸がかなり離れた場所にあるということを これまで知りませんでした、車で2時間以上かけて長崎、出島のある所にたどり着きました。
私が子供の頃見た出島は 敷地の境界の石垣があるだけで出島の面影も図り知ることができませんでしたが 近年 復元に力を入れていて出島の中にあった家屋敷や商業施設が往時の設計等に忠実に再現されていて それぞれの建物の中に 資料館としての機能を作っていて 見学する価値があります。
三番館が貿易の資料館になっていて 義姉がそこ展示してある、陶器の梱包にいたく感心したということでしたが 輸出する伊万里や有田焼の陶器を藁で編んで重ねて大きな筒形の梱包に仕上げてあり 日本人の器用さ丁寧さがにじみ出ている物でした、
陶器の輸出の時に浮世絵を包み紙として使って それが19世紀末のジャポニズムのきっかけともなったという話は知っていましたがそれは江戸末期近くの話で最初はもっと丁寧な仕事だったのでしょう。
出島は来年には正面中央に橋が架けられ(もうほぼ完成しています)正面の入り口からの出入りができるようになります。
グラバー園に~
かつてはグラバー亭と言って一軒だけ江戸後期の洋館があったのですが、今は 丘の斜面に数軒の歴史的洋館が移築されて 回遊式の観光施設になっています、
入場したらエスカレーターを乗り継いで頂上付近まで登りだらだら降りながら 何軒かの建物を見て回る形式になっています。
これは賢いやり方で 団体客が来てもキャパが広く 庭園全体で大人数を収容できるようになっています。
食事の為に入ったレストランから港に着いている大型客船をいることができましたが、地元の人の話では「今日は2000人で少なく 明日は5000人の船が着く」という説明でした
一時の中国人爆買いツアーはなりをひそめたものの 今でも近隣の国からの団体客は押し寄せているようです。
(大村天主堂)
この後 古川町、諏訪町界隈の石造りの橋の架かった川沿いを散策してから帰途につきました。